「オミズ」というと、今ではほとんどの人が「水商売」のことだと思うことでしょう。「おミズ」が昭和の歌手、水原弘のニックネームだと知っている人はおそらく、私より年配の方々だと思います。歌手、あるいは映画俳優として、華々しく活躍していたのは主に昭和30年代なので、私が生まれる前のことになります。
有名すぎる、あの「ホーロー看板」
自分の知っている水原弘は、昭和40年代にカムバックを果たした頃で、歌っていた姿は辛うじて覚えているくらいです。紅白にも出ていたようですが、大人の歌謡曲という感じで子供にとってはあまり興味の対象ではなかったんですね。
私の年代だと歌手としてよりは、ハイアースのCM、そしてあの有名すぎるホーロー看板のイメージが強いです。あのホーロー看板は「由美かおる」の「アース渦巻き」と共に昭和レトロをコンセプトにした店やテーマパークで、合格率でめにすることが多いので、若い人でも「あーあの看板の人か」と思う方もいるでしょう。 あのホーロー看板は数が少なくなったとはいえ、令和の代になっても未だに全国津々浦々の田舎の農家の納屋や、古い土蔵などに現存しています。 最近は、取り壊しや開発でなくなっていくものに加え、昭和レトロブームで売れるので、取り外されて持っていかれることも多く、現役の看板は絶滅危惧種になってます。
あのホーロー看板って、いったい何枚作られたんでしょうか。全国で見るので半端ない数だと思います。
レコ大、第一回目の授賞者
水原弘は昭和34年、この年から始まったレコード大賞の第一回目の授賞者に選ばれたことでも有名です。授賞曲の「黒い花びら」は、「スキヤキ」の曲名で世界的ヒットとなった「上を向いて歩こう」と同じく、永六輔 作詞 中村八大 作曲です。
水原は高校生の時から「素人ジャズ喉自慢」で優勝するなど、実力があったみたいです。その後ジャズ喫茶で働いているところをスカウトされて、芸能界入りしました。今聞いてみると、甘い低音がムーディーですね。 こういう、タキシードに蝶ネクタイ、楽団をバックに歌うっていうスタイルは、今では・・、というより、昭和40年代で姿を消しました。尾崎紀世彦が最後ぐらいだったんじゃないでしょうか。このスタイルは、アメリカのショービジネスの系譜を引いているのだと思います。フランクシナトラとか、トニーベネットみたいなスタイルですよね。 エド・サリバンに代表されるような司会者が「レディース&ジェントルマン!」と呼び掛る、古き良きアメリカのショービジネスをお手本にしていたんですね。そういえば、伝説の「The Beatles」の武道館コンサートの時も、司会者の E・H・エリックがタキシードに蝶ネクタイで、「レディース&ジェントルマン!」と呼び掛けて開演となりました。その後のロックコンサートでは考えられないですよね。
「黒い花びら」の大ヒットで紅白にも出て、映画も作られたようです。役者としても活躍していたんですね。
水原弘は父の同級生だった。
ここに一枚の写真があります。前列左が私の父、その上で頬に手をあてている人が水原弘です。父の高校時代の写真なので、撮影されたのは昭和20年代後半だと思われます。
父は都立赤坂高校時代、水原弘と同級生でした。父から聞いた話では、高校時代から豪放磊落な性格で、高校生なのに当時の売春街、いわゆる赤線や雀荘に出入りしてたそうで、授業に出て来ないときは雀荘に探しにいったとか、売春宿から登校したとか、なかなかすごい逸話があったみたいです。
そんな性格だったので、芸能界でスターとなってからは夜な夜な、豪遊と酒浸りの毎日で「業界屈指の酒豪」といわれていたらしいです。水替わりに「レミーマルタン」を飲んでいたという話もあります。
さらに莫大な金額をギャンブルにつぎ込んで大きな借金をつくったり、暴力団との関係から一時、低迷するも昭和42年「君こそわが命」でカムバック、また紅白の常連に名を連ねるのですが、放蕩三昧の生活は変わらず、億単位の借金を抱えて、その返済のために地方のキャバレーを安いギャラでドサ回りをするようになります。
そんな状態でも酒やギャンブルをやめないので、身体を壊して、昭和53年に巡業先のホテルで大量吐血をしてほどなく息を引き取りました。享年42歳。
父の話では、医者が、この若さでこんなにひどい状態の内臓の状態は見たことがないと言っていたそうで、長年の強いアルコールの摂取で食道静脈瘤、肝硬変等々、生きていたのが不思議な状態だったようです。
数々の逸話に事欠かない、型破りで破滅型のスターはかつてはいましたが、コンプライアンスとか、ハラスメントにうるさい現代には存在できないでしょうね。「横山やすし」が最後くらいでしょうか。
同窓会でも豪快だった おミズ
子供のころ、父親が高校の同窓会に行くと、お土産に高級なお菓子をたくさん持って帰るので楽しみだったのを覚えています。後々、それは全部「おミズ」がおごってくれたものだと聞きました。
同窓会の時も、彼らしい豪快さで、クラブや料理屋を全部自分のツケで借り切って、途中で関係ない人にも「ついてこい!」って感じで引き連れて最後はみんなにお土産を買ったりしたらしいです。
そんなことしてたら当然、借金まみれになりますよね。。
父親が持ち帰るお土産は、普段自分たちが食べる菓子と違って、銀座の有名店のケーキや焼き菓子だったりするので、美味しくて、非常に印象に残っています。昭和40年代の話なので、まだ洋酒とか、高級なチョコレートをふんだんに使った大人が食べる菓子って、めったに口にできませんでしたからね。
「おミズ」のホーロー看板をみると、今でもあの 美味しいお菓子を思い出すのです。
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