「牛乳受」は昭和の団地の必須設備だった

昭和 懐古

宅配牛乳が普通だった時代

牛乳の宅配は今でもありますが、昭和50年くらいまでは牛乳といえばほとんどの家庭が毎朝宅配で届いた牛乳(牛乳瓶入り)を飲んで、空き瓶を回収してもらうというスタイルでした。早朝は新聞配達と並んで牛乳屋さんの瓶の「ガチャガチャン」の音から始まるというのが、日常の光景だったのです。

いつしか牛乳はスーパーで1リットルの紙パックで購入するのが普通になりました。これは軽くて輸送しやすいパッケージの進化と、冷蔵庫の大型化等に依るところが大でしょう。ガラス瓶はテトラパックを経て、四角い紙パックが主流となりました。

私の年代だと、給食の牛乳が小学校の低学年くらいがガラス瓶、それから高学年になってテトラパックになった感じです。低学年の時、給食当番になると牛乳を運ぶ時の重さに閉口したものです。何せ分厚いガラスの牛乳瓶、箱は木箱、更には1クラスの人数が今とは違って45人とかいた時代ですから。低学年では一人で木箱を持つことができず二人がかりで運んでいたのを思い出します。 テトラパックになった時はほんとに軽く感じたものです。

宅配の場合、近所の牛乳屋と契約すると、木製の「森永牛乳」とか「明治牛乳」とか会社名や商品名が入った「牛乳受」が支給され、毎朝の宅配、空き瓶の回収はその牛乳受箱を通して行われていたのです。現在はプラスチック製のようですね。

「牛乳受」は標準装備だった⁉

当時の団地とかの集合住宅ではこの牛乳受が、標準装備されているところがありました。それだけ牛乳宅配は普通だったってことですね。

近所の団地でその名残りを見つけました。この団地は昭和48年に建ったらしく、公団団地の中では比較的後期の団地です。

階段を見てみると。各戸の玄関の前の壁にに小さく四角の切れ込みが入った個所があります。

玄関前の青丸の個所に四角い切れ込み

拡大すると・・・

他の壁と同じ素材の板がはめられて開けることはできません
下部に「牛乳受」の文字

壁と同じ素材でフタがされており、指を隙間に入れて開けようとしましたが全く動きませんでした。(こちらのお宅の方は知り合いなので許可を得てから開けようと試みました)。
だだ、下部には塗りなおしたペンキで塗りつぶされていますが、はっきりと「牛乳受」の文字が見て取れます。
現役時代はどんな感じだったんでしょうか? 古くから住んでる方に聞いてみましたが「うーん、あんまり覚えてないな~」とのこと。そりゃそうです。みんなこんなものに興味がないのが普通ですよね。

この団地が昭和48年に建ったとすると、やはり昭和50年くらいまでは「牛乳受」は必須アイテムだったことがわかります。200mlの牛乳瓶が3~4本入る感じでしょうか。ちなみに当時でも大家族の家は1リットルのホームサイズの牛乳瓶をとっている家庭がありました。1リットル瓶はとてもずんぐりしたフォルムで、これは牛乳受に入らないので、直接地面に置かれていました。この瓶、小さい頃ちょっとあこがれでした。

今でも駅のスタンドや銭湯等で瓶の牛乳を見ると買ってしまうことがあります。瓶の牛乳って中身は同じでも、なんか美味しい感じがしますよね。今の瓶ってちょっと昔のものとは違うんですけどね。

牛乳受が必須だった時代はもうすでに豊かになったとは言え、まだ戦後の栄養不足の時代の名残りで、牛乳に対する栄養ドリンクとしての信仰があったんだと思います。 なんか、牛乳が飲みたくなりました。

 

ネイティブ