明治5年に新橋(汐留)⇔ 横浜(桜木町)から始まった、わが国の鉄道は、その後目覚ましい発展を遂げました。
幹線はもちろん、都市部ではJRや私鉄、地下鉄が複雑に乗り入れて、社会の重要なインフラになっています。貨物は高度経済成長期をピークとして、トラック輸送中心に変わりましたが、旅客輸送に関しては、いまだに日本は鉄道王国と言ってよいでしょう。
日本の国土の広さも鉄道に適していたのだと思います。鉄道黎明期の非力な蒸気機関車でも、東京⇔大阪間は丸一日かければ到達できたし、現在なら、丸一日かければ、ほぼ全国どこにでも到達可能です。
そんなわが国の鉄道史には、その発展を飛躍的に高めた、いくつかのエポックメイキングな出来事があります。
誰もが思いだすのは、なんといっても「新幹線の開業」でしょう。1964年(昭和39年)開業当時、時速200km以上の営業運転をする高速鉄道は世界唯一でした。
その新幹線は、もとをたどると、まだ蒸気機関車が主力であった戦前、昭和14年の「弾丸列車」計画にはじまります。

超高速鉄道は、英語でもそのまま「Bullet Train」っていうんだね。
その後、戦争という大きな試練がありましたが、「弾丸列車」は新幹線として戦後20年を待たずに、実現しました。
その過程においては、車両技術はもちろん、電気設備、運用技術、土木技術、その他いくつもの分野において、高いハードルを乗り越えなければなりませんでした。
新幹線は東海道新幹線として東京⇔新大阪間で開業しました。首都東京から中部日本の中心である名古屋をとおり、第二の都市で西日本の中心である大阪を結ぶ路線は、江戸の昔、徒歩の時代から「東海道」として、わが国の最重要ルートであり、新幹線開業以前の「東海道本線」は日本の鉄道の筆頭路線でした。東海道本線に投入される車両はその時代の最新、最優等の車両であり、当然、鉄道施設にも最新技術が投入されてきました。
つまり、日本の鉄道の近代化、高速化は、全て東海道本線で試され、実現されてきたといってもよいでしょう。
それは、戦前の「特急つばめ」開業と、その後の「丹那トンネル開通」によって大きく前進しました。
超高速鉄道の原点、「特急つばめ」と「箱根越え」の奮闘!!
「特急つばめ」の登場!!
昭和5年に誕生した「特急 つばめ」はそれまでの列車とは一線を画した、特別な列車でした。明治22年に、東京⇔大阪間、18時間52分の所要時間で開業した東海道線は、その後、機関車や、施設など技術面の進歩、急行、特急などの優等列車の登場で、昭和4年の段階では、「特急 富士」によって、10時間52分にまで短縮されていましたが、翌年登場の「つばめ」は、これを一挙に8時間20分に短縮したのです。



いきなり、約 2時間30分の時間短縮なんて、画期的だな。。
「つばめ」は最高時速 95km 平均速度 65Kmという、蒸気機関車としては限界の速度を誇り、C51や流線形で名高いC53、戦後は C62と、当時の花形機がけん引、豪華な展望車や食堂車を連結したまさに「夢の超特急」だったのです。




「つばめ」の高速化には、さまざまな新機軸が盛り込まれました。
- 1.レールの重軌条化
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高速時の安定走行を実現するため、重量の重いレールへの転換を東海道線、全線で実施した。
- 2.特別な燃料の使用
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通常の蒸気機関車に使用する石炭ではなく、火力が強く、ばい煙が少ない煉炭を特別に「つばめ」用に開発した。
- 3.機関車交換のと給水停車の省略
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電化されていた国府津駅までと、そこからの非電化区間で電気機関車と蒸気機関車を交換していたが、蒸気機関車で通し運転をした。また、給水の停車時間を短縮するため、給水車を連結した。(その分、客車がけん引できなくなるので、後に停車給水に変更)



単に、機関車の性能を上げるのではなく、レールや、燃料から計画されていたんだね・・
「つばめ」は当時の国鉄のフラッグシップであり、「つばめ」自体が国鉄の象徴となりました。新幹線開業で「特急 つばめ」は東海道線から消えましたが、その後九州の特急、現在は九州新幹線に名を残しています。国鉄バス(現在のJRバス)は今でも「つばめ」マークがトレードマークになっていますね。



プロ野球の「ヤクルトスワローズ」の前身は「国鉄スワローズ」。つばめが国鉄のシンボルだったから「スワローズ」なんですよね。



そしてさらなるスピードアップを目指す国鉄に、最後に立ちはだかった難問が、徒歩の時代から、旅人を苦しめた、「天下の険」箱根越えです。
「箱根越え」の奮闘!!
東海道の難所といえば、徒歩しか手段がなかった時代から、「天下の険」と呼ばれて、旅人を苦しめた「箱根越え」でした。鉄道にとってもこの「箱根越え」は大きな難題となりました。東海道本線が開通した明治時代には、まだ箱根の山々を貫くトンネルを掘削する技術は確立されておらず、本線は箱根の山々を大きく迂回するルートを選びました。「国府津駅」から、山北、御殿場を回って、沼津に達するルートです。このルートは現在の「御殿場線」になっています。(下図赤線)
昭和9年までは、ここが東海道本線であり、線路も複線で、当時の優等列車が行きかっていたのです。
東海道本線が昭和9年に現在のルート(下図青線)を通るようになってからは、「御殿場線」という1ローカル線になって、本数は大きく減り、それに伴って複線の線路は撤去されて、単線となって現在に至ります。



御殿場線には今でも東海道本線時代の名残りがたくさん残ってます。 単線なのに、もう一本線路が引けるような余地が不自然にあったり、廃鉄橋とか、山越えの機関車が待機していた場所の名残りで、ローカル線に不釣り合いな広い構内とか・・・



御殿場線探検にも行きたいな・・・
この迂回ルートは昭和9年、「丹那トンネル」(下図赤枠)開通まで、続きます。


「特急 つばめ」が登場した昭和5年は、まだ「御殿場線経由」の時代です。この箱根迂回ルートは、「高速化」における大きなボトルネックとなっていました。
「天下の険」と呼ばれた最大の難所なので、迂回ルートといえども険しいアップダウンは避けられません。非力な蒸気機関車では、単独での登坂はできませんでした。そこで、列車は登り坂では、それぞれ、「国府津駅」と「沼津駅」で、補助機関車を連結し、最も標高の高い御殿場駅まで、助けてもらいながら、登坂しました。登り坂のスピードダウンに加えて、補助機関車の連結と解放にも時間がかかることになります。
「特急 つばめ」はこの補助機関車連結作業をなんと、30秒に切り詰めたそうです。



まるで、F1のピットインのようだな・・・



そして、切り離しは御殿場付近で、最後尾の補助機関車が不要になった時点で、走行しながら、切り離しを行ったそうです!



すごい! 走行中の特急から機関車切り離すなんて、一度見てみたいな~
蒸気機関車で東京⇔大阪間 を8時間20分を達成した「特急 つばめ」。しかし、これが限界でした。さらにスピードアップするには、ボトルネックの「箱根越え」の解決が課題となったのです。
時代は大正時代になり、土木技術の進歩もあり、いよいよ「トンネル」によって、箱根を貫通するという悲願達成に向かって、「世紀の難工事」と言われた、「丹那トンネル」開通工事が始まります。
「世紀の難工事」!! 「丹那トンネル」完成へ


湧水・崩落・・・ 多くの犠牲者を出した難工事
「丹那トンネル」の工事は大正7年に始まりました。当初の計画では、工期7年、大正14年の完成を目指していましたが、工事は困難を極めます。特に大量の湧水は芦ノ湖の貯水量の3倍という膨大なもので、水抜きのために掘削した水抜き抗は、トンネル本体の2倍に及ぶ、15kmにもなったといいます。
トンネルの真上の丹那盆地はワサビの栽培や、水田での稲作が盛んでしたが、トンネル工事で水がぬけて、それらは干上がってしまったそうです。



今なら、大問題になってるぞ!!



当時も、農民には保証金が出たみたいだけどね。
その後、丹那盆地は酪農が盛んになったようです。
また、数度の落盤事故や、地震による崩落などで工期は伸び、犠牲者も出てしまいます。
結局、16年もの歳月を要して「丹那トンネル」は完成します。年号は変わって昭和9年となっていました。完成までに犠牲になった方は67人にもなります。





真っすぐ直線のトンネルですが、工事のときに発生した地震によって、断層が約2mずれた影響で、途中でわずかにS字になっているそうです。
開通後
総延長7.8kmの「丹那トンネル」の開通により、それまでの御殿場線経由に比べ、路線長で11.7㎞、所要時間では、約 1時間の時間短縮ができるようになりました。あの「特急つばめ」も東京⇔大阪間を20分短縮して8時間になり、これは戦後、昭和33年の電車によるビジネス特急「こだま」が登場するまで、最速でした。
また、御殿場線経由のころは、行き止まりのさびれた駅であった、小田原、熱海や三島などは、トンネル開通によって一躍、華やかな一等地となり、地価が高騰して大きく発展しました。一方、機関車付け替えの拠点であった国府津駅はさびれてしまうなど、周辺の街や人々の生活にも大きな影響を与えたのです。
「丹那トンネル」に行ってみた!!
熱海口の殉職碑に向かう
丹那トンネルは、電車にのって通過したことは何回かあるのですが、わが国の鉄道史における大きな偉業であるこのトンネルを間近で見てみたいとずっと思っていました。先日、熱海に行く機会があったので、行ってみることにしました。目指すは熱海口の真上にある、工事で犠牲になった方を慰霊する殉職碑です。
来宮神社の前の道を東海道線に沿って、山側に進みます。ちょうどレンガ造りの熱海口の真上に、ほんとに小さい公園(といえないくらい小さい)みたいな場所が殉職碑があるところです。


近くには犠牲者を祭った、「丹那神社」もあります。上のアングルで写真を撮りたかったのですが、この位置まで降りようとしたら、フェンスに鍵がかかっていて、行けませんでした。こちらは、熱海の旅館「平鶴」様のHPからの画像です。 この位置で撮影している方の画像もよく見るのですが、さすがに鍵がかかっているフェンスの中に無断で入ることはできないので断念しました。



マナーを守らない鉄道ファンが増えてるからなー
殉職碑には、決死の作業に従事するトンネル抗夫たちのレリーフ、犠牲者の名前を刻んだ銅板、説明の銘板がありました。






トンネル扁額の横に、工期を示す皇紀の表示が・・
そして、丹那トンネルの上に掛かる、扁額と、その横にともに掛かっている、皇紀表示の工事期間を示す数字を確認しに行ってみました。
上の、熱海口の画像を拡大したものがこちらです。


中央はわかりにくいですが、おそらく、戦前なので、右から読みで「道隧那丹」とあり、その左に、皇紀の表示で
着工年である 皇紀2578(年)=1918(大正7)年、扁額の右には
完成念である 皇紀2594(年)=1934(昭和9)年
という数字がかかってます。



これだけの年月と犠牲をだして、ついに完成したんだ! という思いが感じられますね。
この画像のアングルでは撮影できないことが分かったので、逆側に回り込んでみました。
しかし、こちらは急な斜面で、木が鬱蒼としていて、なかなか近づけません。途中、転んで泥まみれになってしまいました。



ケガがなくてよかったよ・・
ギリギリのところまで行って、ようやく木々の間から、「2578」と「2594」を確認できました。
扁額に比べて皇紀のプレートは 90年前のものにしては新しい感じです。




丹那トンネルの鮮明な全体像を撮影することはできませんでしたが、こちらのサイドは、東海道本線と並走する、新幹線の「新丹那トンネル」の熱海口のすぐ真横に降りることができました。


もちろん厳重なフェンス越しですが、この位置までは特に立ち入りの規制もなかったので、トンネル抗口の真横に行ってみました。手が届きそうなところ、目線の位置が新幹線の車輪になります。こんな低い間近な位置で、新幹線が走行するのを見れるとは思いませんでした。「のぞみ」など、熱海に停車しない列車だと、スピードも半端ないので、思わず後ずさりしてしまうほど迫力があります。



車両が通過する時を撮ろうとしましたが、うまくいきませんでした。
最後に殉職碑に合掌して、「丹那トンネル」を後にしました。
「丹那トンネル」訪問の感想
「丹那トンネル」に関してのエピソードは以前から知っていましたが、今回現地を訪問してみて、改めて、先人の労苦の上に、今の私たちの快適な暮らしがあるんだな・・ということを感じました。何気なく通過するトンネル、当たり前のようにわたっている鉄橋。急峻な山岳の合間をわたる高圧線。深い山奥のダム・・・



人間ってすごい!ってつくづく感じますね。
私たちの世代は、何を後世に残していけるのだろうか・・・ などと、色々考えて、帰路につきました。
それとともに、行きたいと思っているところには、多少無理してもいけるときにどんどん行ってみよう、と思った次第です。


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