洋の東西を問わず、古い映画を見るのが好きです。先日、昭和43年(1968)公開の日活の映画で「娘の季節」を見ました。主演は和泉雅子。若き日の杉良太郎や藤竜也、中尾彬などが出ています。
バスのワンマンカー化を忠心に、若い娘たちの職場における悩みと喜びを交叉させ、明るく健康な女の表裏を描く青春大作
NIKKATSU 公式サイトより
バスの車掌という言葉を聞くと、若い人は・「バスガイドのこと?」と、思うかもしれません。もっとも最近は観光バスのバスガイドさんも、減少してるらしく、ガイドさんの乗らないツアーも多いですよね。
街中を走る路線バスの乗務員は運転手さんが一人というのが当たり前です。いや、自動運転の技術が日進月歩の今日、運転手さんも、いなくなるかもしれません。
1960年代まで、路線バスには車掌さんが、乗っていました。車掌さんの多くは若い女性の方でしたが、男性の車掌さんもいたようです。田舎の方では1970年代にもちらほら見られましたが、おそらく80年代に入る頃には絶滅していたと思われます。
この映画はまさに車掌さんが廃止されて、ワンマンカーが増えて行くさなかのバス会社が舞台となっています。「ワンマン化」以前の路線バスの様子がわかって、興味のある人にはおすすめです。
今では死語の「ワンマンカー」
ワンマンカーの「ワンマン」は文字通り、「one man」 1人という意味。バスの場合は乗務員が1人、つまり運転手だけのバスという意味です。 それまでは運転手と、車掌の2人が乗務していたので、運転手のみのバスはそれと区別して「ワンマンカー」と呼ばれました。運転手のみの乗務が普通になってからも、かなり長い間、バスの方向幕(これも今はLEDですね) や、運転席の上などに「ワンマン」と表示されたバスが走っていました。さすがに今はもうその意味を知ってる人も少なくなっているし、運転手のみの乗務が当たり前なので、「ワンマン」の表示があるバスはないと思います。現在だと、「低床バス」とか、「ハイブリットバス」とかの表示が見受けられます。
私は昭和40年(1965) 生まれなので、車掌さんの乗ってるバスの記憶は都心のバスだと、あまりないです。映画「娘の季節」は京王帝都バスがロケに使われてますが、この映画の頃は3才なので、都心部は急速にワンマン化してしまったのだと思います。 ただ、幼児の時にバスを待っていて、「あ、次のバスはワンマンだっ!」とか喜んでたのはおぼろげながら覚えています。きっと当時は「ワンマンカー」に最新鋭の雰囲気があったんだと思います。
都心では早い時期に「ワンマン化」がすすんだのですが、地方には車掌の乗るバスが70年代まで走っていたので、こちらの方はよく覚えています。私が覚えているのは、国立とか立川とか東京郊外で乗った小田急バス(だったかな?)です。今でこそ立川とか都会になっていますが、昭和40年代は中央線も三鷹を過ぎると田舎でしたし、遠くにきたなと感じたものです。その後、小学校の時、父親の転勤で福島県に住んでいた時、田舎の方に行く路線バスが車掌乗務のバスでした。
行き先を告げて切符を買っていた
路線バスの車掌さんは、だいたい10代後半の女性だったと思います。当時の感覚では20代前半に結婚して退職という流れが一般的でした。バスの車掌さんは戦前から戦後すぐは「バスガール」と呼ばれていました。私より年配のかたは昭和32年(1952)のヒット曲「東京のバスガール」を思い起こす方も多いでしょう。
当時、中学を卒業して就職する人が多く、「バスガール」は花形でした。 ただお仕事はなかなか過酷だったようです。今は舗装道路が当たり前ですが、昭和40年代の前半まで、国道でさえ未舗装の箇所があり、脇道にそれればほとんどが未舗装道路。轍などで凸凹が激しく、一度雨が降ればドロドロのぬかるみになってしまいました。そんな悪路を今とは比べ物にならない乗り心地のバスの中、ずっと立って勤務するのは想像しても大変ですね。 ドアの開閉も自動ではなく、車掌さんの受け持ちでした。車庫に帰っての清掃業務もありました。
車掌乗車のバスはまず、バス停に待っている人、降りる人がいる場合、運転手に次の停留所で停まるようにアナウンスします。乗降口に立って扉を手動で開け、降りる人と乗る人を整理します。「ワンマン」になってから乗り口と、降り口が分けられ乗客は一方通行に流れるようになりましたが、この頃は車掌がまず、降車客を降ろし、次に乗車客をのせてたんですね。
乗客の乗降が終わると、扉を閉めて「発車オーライ!」と運転手に聞こえるように合図をします。
そして、「次は◯◯次は◯◯、お降りの方はいらっしゃいますか~」と次の停留所の案内。今ではもちろん録音されたアナウンスですが、肉声ですからね。ちゃんと停留所の順番も頭の中にいれておかなければいけません。
バスが走り出すと車掌さんが、乗車した客に行先を聞き、お金をもらって切符を渡します。当時も都心は均一料金だったのでしょうか? 均一区間であれば、お金をもらって切符を渡すだけだったと思います。なので、車掌さんは切符やもらったお金と釣銭を入れる大きな黒いバックを下げていました。メチャクチャ揺れるバスの中で、どこにも掴まらずに料金と釣銭の小銭や切符をやり取りするのって、本当に大変だったと思います。ICカードも◯◯payもありませんからね。全部小銭のやりとりです。
降りたい乗客はこれまた、「はい!」と挙手したり、「おりまぁ~す」と声をあげます。もっとも、後期になると、降りる人はブザーを鳴らす、というかたちになっていたかと思います。ホントに安~い緑色のプラスチックに白いボタンがついただけの、ブザーを覚えています。光りもしないやつで、音もピンポ~ンとか軽い音ではなくて、「ビーっ!」って感じのまさにブザーでした。
youtubeに映画「娘の季節」のロケに使用された京王帝都バスの車掌さんの研修ビデオがありました。大変貴重な映像です
令和の世からは隔世の感がありますね。
まとめ
映画「娘の季節」は、車掌乗車からワンマンへの過渡期の状況や車掌さんたちの生活が描かれており、映画の本筋とは別に貴重な資料だと思います。
この映画の主演、和泉雅子は、吉永小百合、松原智恵子と共に「日活三人娘」とよばれていたそうです。もっとも、「娘の季節」の昭和43年は石原裕次郎や小林旭の活躍した昭和30年代の日活黄金期も終わり、時代はTVにその主役を明け渡し、映画が衰退していく頃と重なります。高度経済成長の中で日本人の生活や価値観が大きく変わっていく様子がよくわかりますね。
主演の和泉さんはその後、映画時代のお嬢様キャラから北極探検家として、日本人初の北極点到達を成し遂げ、その後は北海道で馬を飼ったり、農業をしたりしておられます。
「路線バスの車掌」を懐かしみながら、時代の移り変わりを色々楽しめる映画でした。
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