「海外旅行」は、現在でも多くの人にとって大きなイベントかと思います。しかし、かつてに比べれば、ずいぶん身近なものになっているのではないでしょうか。一般の方でも、夏休みなどの長期休暇や、卒業旅行など、あるい社用での海外出張などで海外に行くことは珍しいことではありません。
日本人が自由に海外渡航できるようになったのは、昭和39年(1964)の 海外渡航自由化からです。
かっちゃん自分が生まれる、1年前まで、自由に海外観光できなかったなんて、ちょっと信じられない気がします。。
それまでは、日本人の海外渡航は業務、商用、留学などに限定されていて、観光目的の渡航は禁止されていました。
昭和20年代までは、渡航手段も船舶が主流であり、アメリカ行きですと、渡航に2~3週間かかるなど、多くの時間と、莫大な費用がかかり、海外渡航者は限られていました。
昭和30年代に入ると、渡航手段で飛行機が船舶を上回るようになり、所要時間は飛躍的に短縮されます。
それでも、上述したように、自由な渡航は許されておらず、パスポートの取得の審査自体が厳格であった上に、庶民の所得に比べて、渡航費用は莫大であり、一般人にとって全く縁のないものでした。
渡航自由化の後も庶民にとってしばらくは、海外旅行は「高嶺の花」でした。1970年代になり、ようやく新婚旅行に「グアム」や「ハワイ」に行くことが流行り始めたのが、多くの日本人にとって、初めての海外体験でした。



当時のクイズ番組の特賞は「夢の」ハワイ旅行 といのが定番でした。
有名なところでは当時の人気番組 アップダウンクイズ (1963~1985)の賞品でしたね。



番組も末期になると「夢の」がとれて、ただの「ハワイ旅行」になってた・・
母の渡米と「レントゲン写真」⁈
サンフランシスコまで プロペラ機で30時間!!
私の母親は昭和30年に、アメリカに渡航して、7年間ロサンゼルスに滞在してました。



金持ちだったのか?



全く、逆です・・!
私の母親の家は、戦前は中流の上くらいだったようですが、空襲で家を焼かれ、親戚の家に身を寄せていました。
家がなくなって、みんなが生活のために、がむしゃらに働かなければならないとき・・ なんと父親(私の祖父)は働かずに、売れない本を執筆したり、俳句を作って、働かなかったのです。



あまりにも貧乏で、高校の学費はアルバイトで払い、クラスで一人だけ、修学旅行に行けなかったようです💦
そんなわけで、母の祖父に対する、評価はボロクソです。家族を顧みず、霞を食って生きていた自由人の祖父は、今だと「クズ男」ということでしょうか。 今だったら即離婚となるのでしょうが、祖母も明治の教育を受けていたので、そんな夫を立てて、忍従していたようです。
孫の私は、少し変わっていたけれど、「面白いおじいさん」というイメージでしたけどね。色んな発明品を作ったり、イメージとしては、「Buck to The Future」の「ドク」みたいな。
話がそれましたが、そんな窮状を見かねたのが、母の伯父(私の大伯父)でした。
その人は、移民でアメリカにわたり、当時「真珠」の売買で成功して、ロサンゼルスで小さな会社を経営していたようです。ただ、伯父夫妻に子供がいなかったので、いずれ母を養女として、婿を取ってもらって、事業を継がせようと考えていたみたいです。



それでアメリカに行くことになったのか。



まあ、「口減らし」ってことだね💦
大伯父はロサンゼルスで学校の手配をしくれたので、修学しながら、真珠の商売も手伝うみたいな感じだったようです。
母の2、3年前くらいに渡米した人は、船を使ったといいますが、昭和30年の母の渡米時は、ようやく飛行機が主流となってきたおかげで、羽田空港から飛行機だったそうですが、当時はまだジェット機が就航しておらず、プロペラ機だったといいます。おそらく、当時の日本航空の飛行機というと「ダグラス DC-6」だったのではないかと思います。


今のジェット機なら時速1,000㎞近く、高度も10.000mを超える成層圏を飛びますが、プロペラ機は速度500km、高度も5~6,000mという感じだったと思います。 そのため、サンフランシスコまで30時間くらいかかったといいます。
成層圏より低い場所を飛ぶため、DC-6はさすがに与圧はされていますが、気象の影響ももろに受けるし、相当揺れがあったのでしょう。



聞いただけで、気持ち悪くなってきた・・
航続距離も短いので、ひとっ飛びでハワイに到達できず、太平洋の真ん中のウエーキ(ウエーク)島で給油したのち、ハワイを経由してサンフランシスコに到着したようです。



ウエーキ島は、戦時中日本軍が占領して、そのあとアメリカが奪い返したので、当時も日本軍の残骸があったと、母は言っておりました。
渡航には「レントゲン写真」をもっていかなければならなかった⁉
母が施設に入居することになり、実家を整理していたら、古い大きな封筒が出てきました。
中を見ると、大きなレントゲン写真が入っていました。 今では、レントゲンの画像は、お医者さんの机のPCのモニターで画像を見せられるのが普通ですが、平成初期くらいまで、医者が患者にレントゲン写真を見せるときには、この大きな写真を蛍光灯が内蔵されたパネルに貼りつけて、後ろから光をあてて映し出して説明していました。



なんでそんな物があるんだろー?



米国へ入国するのに、レントゲン写真で、結核に罹患していないことを証明しないと、入国できなかったらしいです。
「結核」は戦前までは「不治の病」として恐れられていました。戦後になって、抗生物質が登場し、治癒率は飛躍的にUpしましたが、昭和30年当時は、日本人の死因のTopが「結核」だったのです。
最近少し物忘れがひどくなってきた母も昔のこ



アメリカからすれば、「結核」が蔓延する、東洋の敗戦国から来るんだから、防疫を徹底しないと・・という感じだったんではないでしょうか。
実物の画像がこちらです。母はこのレントゲンを撮影しに行くために、「わざわざ、聖路加に行った。」と言っていましたが、確かに、フィルム(?)に、「St.Luke’s Int. Hosp.」の名前が確認できます。











すべてに隔世の感がありますね・・・。
パスポートには、日本降伏文書調印のときの全権「重光 葵」の名前が・・!
レントゲン写真の封筒と一緒に、当時のパスポートも見つかりました。



今と比べると、デカっ!



外務大臣は「重光 葵」だね!
教科書にも載っている、有名な戦艦ミズーリ号の艦上での太平洋戦争の降伏文書調印時に日本の全権だった「重光 葵」が昭和30年当時、日本の外務大臣だったんですね。別のページには筆記体で書かれた、重光のサインがありました。



それって、直筆⁈



さすがにそれはないでしょう。いくら海外渡航者が少ない時代だとは言え、外務大臣が、1旅行者の旅券にいちいちサインすることはあり得ません。
筆記体で書かれた、「Mamoru Shigemitsu」の直筆サインを、印刷したものと思われます。










まとめ
レントゲン写真を見つけてから、この記事を書くにあたって、母に色々とヒアリングをしました。
施設に入って最近めっきり物忘れがひどくなっている母も、昔のことはよく覚えていました。20代の大半を過ごしたアメリカ時代のエピソードも色々聞けました。



当時ならではエピソード、機会があったら紹介します。
海外旅行は、船の時代を経て、プロペラ機、ジェット機と進化を続けて、今では誰でも半日くらいで、南米を除く世界の主要都市に行くことができます。その過程においては、今では考えられない習慣や手順があったということがわかりました。
この先は、どんな未来が広がっているのでしょうか?
宇宙旅行? それより先に超音速機の大型化で、数時間でアメリカに行けるようになるのでしょうか。



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